禅 – 人生の悩み苦しみへの処方箋
hasunoha回答僧の丹下さんに誘ってもらい、井上貫道老師の坐禅会に参加してきました。
井上貫道老師はgoogleなどで検索しても名前がたくさんヒットする有名な方であり、丹下さんより現代の最高の禅の指導者の1人だと教えてもらっていました。
老師のお話(提唱)を聞き、hasunohaの悩み苦しみのすべてはここで解決するのではないかと思えるほど人間の本質に迫るものでした。
坐禅や禅に関して持っていた漠然としたイメージが実はまったく違うということも知りました。hasunohaの質問者の方に是非お話を聞くことをお勧めしたいです。心がとても楽になりますよ。
では、少しだけその世界を見てみましょう。
まず、全員でお茶を飲む
老師を囲んで40名程度。最初にお茶を飲みましょうと言われ、目の前のお茶を静かに飲みます。美味しいお茶だなとぼんやり思いながら老師が話し始めるのを待ちます。
実はこれがとても重要なことを知る一つだと後で知らされます。
天然のテープレコーダー
お話が始まります。『せっかくここに来たのだから、どんどん質問して自分のモノにして帰ってください。私の話を録音したり書き留めたりする方もいますが、天然のテープレコーダーがきちんと聞き分けるようになっていますから。』
天然のテープレコーダー?
それは、人間の耳のことでした。しっかりと自分の耳で聞く。そうすれば耳は自然と言葉を聞き整理をする。その話を受けて素直に耳に頼ってみようと思いました。今はその中から自分に残ったものだけを書いています。
非思量の世界
ある方が最初の質問をした。「不思量と非思量の違いは何ですか?」
これは、曹洞宗宗祖である道元禅師の「普勧坐禅儀」の中にある「不思慮底思慮 是即非思慮」(考えを離れるにはどうすればよいのか。考えで無い処に住すればよいのです)という言葉の、不思量と非思量の違いについてを質問されているようだ。
『そんな風に考えてしまうからいけないのだ。』
そう言われると、目の前にあった扇子を机で叩き始めた。机をたたく音がする。また叩く。
『これは何だ?』『何が聞こえる?』
全員に問われる。誰も答えない。
どういうことなんだろう??今の質問と扇子を叩くことと何の意味があるのだろう?そう思いながらも、叩きながらまた問われる。『これは何ですか?』
自分の中で考えてみた。何だろう?扇子を叩く音・・何かここからある答えを見つけて答えなければならないのだろうか?
誰も答えないでいると老師が話し始めた。『今あなたの耳で聞こえているもの。それしかないでしょう?』そう言って叩き続ける。『これはここにいる皆さん全員同じように聞こえますよね。』それだけなんです。
扇子を机に叩く。音がする。これは何だ?何が聞こえる?
『今自分の耳で聞いているものだけが事実だ。』
それにいろんな考えを人間は張り巡らす。それは事実ではない。考えに囚われると事実が見れなくなる。
眼(まなこ)で見る
いろんなところを見ながら、『今皆さんが見ているもの、まなこで見ているもの。それが事実なんです。』
そこに人間はいろんな考えを入れてしまう。こうなんだろうと思いながら見てしまっている。そうして事実と離れていく。
坐禅は呼吸?
ある人が坐禅の仕方について質問した。
『坐禅でよく呼吸の仕方なんて聞かれる。深く吸ってから吐くとか。呼吸を整えると。』
『でも、人間は状況に応じて自然と整えるようにできているんです。』
『急いで走ってきた。ハアハア息をしながらやってくる。それは呼吸が乱れているのではないのです。体がそうすることを求めているから自然とするのです。体を整えようとしているのです。』
『坐禅では、深く息を吸って吐きましょう。楽になりましたね。』
『でも坐禅が終わって家に帰ったら、いつもの生活に戻ってまた苦しい。1週間に1回の坐禅会のときだけ楽になる』
『そういう、オンとオフ、切れ目のあるものでは人生はないはずです。』
質問に答えていく老師。はっきりとはわからないまでも、何か人間の本質に迫るものを感じる。人間が本来持っているもの、それを見失っている自分。それを感じるかのように話に引き込まれていく。
修行とは
修行はこうする。は違う。
『修行のときだけ何かをする。終わったらしない。オンオフではない。オンのときだけ出来て、オフのときはやれない。オフのときは生きていないのか?』
『そうではない。人生はつながっている。』
新しい自分に生まれ変わる
人はよく今までの自分から脱皮して、新しい自分になりたいと言う。
閉じた扇子を皆の前に見せる。『これは何ですか?』
扇子を開く。棒のような形だったものがパッと開く。今まで閉じていた形はもうない。新しい形になった。
『これは何ですか?』
『今まであった形がなくなった。違う形になった。でも何か違うものに変わったのですか?』
『今までの自分を捨てて新しい自分になろう。そんなことは人間はできない。つながっている。』
何かとても大切なことを、いろんな例をとって伝えようとされているのだと感じながら場が進んでいく。
幸せになりたいんじゃないの?
『なんか質問ないの?』質問が少ないので老師が皆に問いかける。
40名の前で自分のささやかな悩みを打ち明ける勇気が自分にはなかった。
『何のためにここに来たの?坐禅しにきたの?話を聞きに来たの?』
『幸せになりたいから来てるんでしょう?』
『結局、幸せになりたいから坐禅してみたり、ここにきているのではないの?家に帰って次回までまた悩んで1週間過ごすの?』
『質問して一つでも持ち帰って、明日からの毎日に生かしてみたらどうなの?』
笑顔で言われる老師。幸せになるために。苦しい毎日を過ごしているほど心が揺さぶられる
唯、事実に向き合う
『お茶を飲む。味がするのはいつですか?どんな味ですか?』
飲んでいる瞬間に味を感じる。そこに美味しい、まずいという概念はない。飲んだ後にそれを人間が評しているだけである。お茶を飲んでいる今その瞬間の味こそが事実である。今ある事実それに目を向ける。
耳、眼、舌・・人間の五感。それを感じる瞬間に感じたままに感じる。そこにしか事実はない。
『しかし、人間はそこに考えをいれてしまうのです。』
嫌いな相手に会った。相手が話すのを聞く。嫌なことばっかり言うやつだ。そういう風に後で自分の思いで解釈してしまう。
『鏡に映った自分は本物である。鏡に自分が思うような姿が映ったら嬉しいかもしれませんが(笑)、事実しか映りません。』
『今ある事実にだけ目を向ける。そこに人間の思いを挟まない。事実とずれてくる。そこに苦しみが生まれる。』
そうやって事実に向き合うことができればもっと楽に生きられる。相手が怒りをぶつけたからといってこちらも思いに任せて怒りで返さない、事実にだけ目を向ける。それが修行である。
お話を終えて
個別に質問は最後までできなかったが、老師のすべての話が自分ごととしてはいってきました。
そのときだけわかった気になって家に帰ったら忘れる。そうではなく、毎日の実践をどう作っていくかを教えていただきました。生きているといろんなことが起こります。ほんとうに、これでもかというくらい。
今ある事実に目を向ける。まずはここから実践することで、お話以来ずいぶんと楽になっています。
皆さんもぜひ。
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